東日本大震災後、”死”を、すぐ隣に感じた人も多いのではないか。被災地の状況を見聞きする毎に、それまで遠くにあって気配すら感じたことのなかった”死”というものの温度を、皮膚感覚で覚えた人もいるだろう。”死”は、いつのまにか、ぴたりと自分の横に座っているものなのだ、と。
5月に被災地へ伺ったとき、たくさん写真を撮ってきた。町も、人の営みも、地震と津波でぐしゃぐしゃに破壊され、海から離れた山際まで、見渡すかぎり一面、押し流されてきた瓦礫ばかり累々と横たわっていた。
現地にいる間は、そうした写真をブログにアップしようと、いや、現地へ行った者の責任として、アップしなければならないのではないかと考えていた。が、盛岡で出会った釜石出身のある女性の一言で、気持ちは変わった。
「釜石には、まだ帰っていないんです。見るのが怖い」
故郷が破壊された光景は見たくない。見たら心も壊れそうになる。それが被災地の方の気持ちなのだ。私も郷里の福島で、余震が来たら今にも崩壊しそうな建物群を見たとき同じ思いを持った。
岩手の海は、陽を受けて穏やかにきらめいていた。静かな海面と向き合い、浜の一隅にお線香を立てて、亡くなられた方に手を合わせた。足元には、細かく砕けた瓦礫やボロボロの布切れが散乱していた。
被災地へ伺いたかった最大の理由は、どうしても、亡くなられた方に手を合わせてきたかったからだ。そこで暮らしている方から、メディアでは伝えられていない悲惨な状況を聞くと、胸を詰まらせながら合掌することしかできない悔しさも同時に覚えた。
合掌の向こうには、春の海が青く沈黙し広がっていた。
私の故郷は福島県の内陸部にある。今も家族はそこで暮らしている。幸い家屋自体に大きな損傷はなかったが、地震直後に撮ったという室内の写真を見ると、凄まじい荒れ方だった。東京の友人が貸してくれたガイガーカウンターで、庭のあちらこちらや、部屋の中の放射線量を計測して回った。自治体が発表している数値よりもやや低めだったが、それでも、庭の空間線量は、だいたい0.9~1.5マイクロシーベルト/毎時。庭土は、1.32~2.6マイクロシーベルト/毎時。室内は平均して0.07マイクロシーベルト/毎時だった。(いずれも、5月12日~16日の間)
庭には様々な果実の木が植えられており、狭いが家庭菜園もある。生ゴミで肥料を作り、有機栽培の果実と野菜を育て、収穫して食するのが年老いた家族の趣味でもあり楽しみだった。
何十年も大切にしてきたその楽しみは、放射能によって悲しみに変わった。私が行ったとき、庭ではライラックやブルーベリーの花が美しく咲いていた。それを手折って室内に生けることさえもできない。
梅の実が青々となっても、柿が艶やかに色づいても、唇をかみしめて見上げるだけだ。放射能が降るとは、そういうことなのだ。
福島県内では、農家や酪農家の自殺者も出ている。どれほどの苦しみか・・・。
それでも、福島の家族、友人、出会ったクライアント様から、私はたくさん励まされ、勇気をもらった。誰も経験したことのない逆境にいるはずの彼らの、笑顔の強さと他人に対する思いやりを、心の底から感じたからだ。人間という存在を誇りに思う、という感覚をはじめて覚えた気がする。
日本のどこかで、次の大地震が迫っている今、福島を対岸の火事と捉えている人は、もはやいないだろう。いたとしたら、よほどおめでたいか、想像力が欠如しているかだ。
震災後、八ヶ岳にセラピーに見える方の相談内容には、ひとつの方向性が顕著だ。
被災地から遠く離れた場所で暮らすクライアント様も、「これからどう生きていけばよいのか」という命題を突きつけられたという。震災によって、”死”を身近に感じたせいだろう。
死ぬとき、いや、死んでから、あなたはどんなことを思うのか。前世療法の中では、死んでからどんな後悔をしたかを本人に尋ねる。すると、遺してきた家族の心配や、もっと勇気を出して「~すれば良かった」というように、身近な後悔・心配がほとんどだ。それが本当に大切なことだからだ。
生きていくのに大切にしなければならないことは、本当は、少ない。
クライアント様は、それが今世では何なのかを、自分の心としっかり対峙しなければならない必要性を感じているのだろう。